自己紹介

来年還暦を迎えるので振り返りながらの自己紹介です。

初就職

高校卒業後は地方公務員として病院の事務職として勤務。
3年目の冬に父親が腎臓ガンで余命1年と宣告された。
当時は介護休暇などがなく離れて暮らしていたこともあり
人事異動対象だったので新しい勤務先に迷惑かけたくないこともあり
何の迷いもなく退職。

結婚は数秘に導かれていた?
学生時代は小4からバレーボール部で高校卒業後も高校のOGチームで活動。
男子バレーボール部の先輩から練習に誘われていったチームのメンバーと
のちに結婚することになるのだが7月に初めて会ってすっかり意気投合して
翌年に結婚しようという話が先方のご両親は結婚が決まっていた次男さんより
先に長男を結婚させたいという強いご希望があり11月に挙式となる。
今から思えば本質数が【11】同志なのでスピードMAXになったと思われる。
そして生まれた長男・長女・次男はそれぞれ成長してくれている。
配偶者が脳出血で入院して発覚したこと

私が52歳の時に配偶者62歳が脳出血倒れて入院。
当時は回復期リハビリテーション病棟がある病院でリハビリ助手として勤務。
通勤時間が片道約1時間でフルタイム勤務後に病院に通う生活が始まった。
しばらくすると気になる郵便物が何通もあり本人に聞くとなんと借金発覚!
脳出血の後遺症で右麻痺の身体障害者となり復職はできないとなると返済は無理なので
私が委任されて自己破産の手続きをすることになった。
フルタイム勤務の後、病院へ行き洗濯物を持ち帰り、自己破産手続きの書類をまとめたり
この時が人生最大のピンチで心身ともにきつかった。
弁護士さんのおかげでなんとか自己破産成立。
最後に借金総額を訪ねると「個人情報なので委任された方でも教えられません」
力が抜けて帰った記憶がある。

あろうことか余命宣告

年末に退院して自宅療養の4年後の夏
食べられない又は食べても嘔吐の繰り返しで「しんどいから救急車を呼んでほしい」と言われ
救急受診を受けても脱水症扱いで点滴治療で帰宅ばかりだったが自宅療養が限界だったので
仕事が休めない私はドクターに手紙を書き長女に付添を頼み病院へ行ってもらい
何とか入院できた。
そして主治医から出た言葉は「ステージ4の胃ガン」
抗がん剤治療をすると右麻痺があるから副作用に対応できない
ガンに対する治療はできないが延命に関してはできることは精一杯すると言って下さり
余命宣告は3か月から半年…
12月に長男の第一子が生まれる予定だったので出産する病院に入院させた。
同じ院内なら一瞬でも初孫に会えるかも知れないという淡い期待もあり
「半年頑張れば初孫に会える」と希望を持たせ
長男は面会時間の終了間際に毎日声をかけに行っていた。
お嫁さんはその病院に勤務する看護師さんで
時々大きなおなかを見せに行ってくれた。
そして10月になり緩和ケア病棟に変わるための説明の日
だんだん意識が遠のいていくのがわかり
お見舞いの寄せ書きしたバレーボールを
手に触らせると「うーっ」と声が出た。
これが最後の声となり私と3人の子供が見守る中で永眠。
その2か月後に初孫の男の子が生まれ長男は父親の一文字を入れて命名。
長女は父親が亡くなった病院で主治医への恩返しの気持ちで
胃カメラなどの器具洗浄の仕事をしている。

そして現在

地方公務員時代の先輩から「受けてみたら?」と勧められた採用試験に受かり
非常勤職員として区役所勤務。
思えば高校卒業後の病院での勤務から始まり出産、育児を終えて
大きな病院での受付事務やその病院を退職する時に
担当科のドクターから「弟が調剤薬局オープンさせるので事務として来てくれないか」と
言われたり50歳で正社員になりたくて面接を受けたリハビリ助手。
仕事が変わるたびにありがたい御縁に引き寄せられ
これらの仕事をしていなければ配偶者の入院に関して1人では右往左往していただろう。
特にリハビリについてはわからないことはすぐにスタッフに聞くことができたし
介護保険サービスについても学べたことは大きかった。
そう思うと私の人生はうまくできている。
私の経験が誰かのお役に立てたらいいなと思う今日この頃です。